国司なす   なすしふく

茶の湯の初期においては、道具はすべて唐物で、茶入れも中国の焼き物で占められていた。しかし、村田珠光の頃から和物も使われるようになり、まず瀬戸が、その後、茶の湯の隆盛とともに信楽、備前、伊賀などの茶入れが作られるようになった。利休さんは焼き物茶入れだけでなく、塗り物のなつめを濃茶用に使い、小間などではなつめのほかに真中次などに仕服を着せて使用した。現在でも仕服を着せて濃茶に使われるのは、利休形なつめ、真中次、老松、金輪寺、あこだである。地方の窯でも茶人の好みを満たすよい茶入れが作られるようになると、現在のように濃茶入れ=焼き物になった。