water pot

水指も最初は中国製の唐金が使われたが、侘び茶の深まりとともに信楽や備前などの土物や、木地などが使われるようになった。その後、織部の大胆なデザインのもの、遠州好みのきれい寂びのもの、元伯宗旦好みの京焼の簡素なものなど、さまざまな寸法、色彩、形の水指が出揃う。

なお、木地釣瓶、木地曲げ水指、信楽、備前の共蓋つきは広間ではあまり使わない。

  国司なす   なすしふく

茶の湯の初期においては、道具はすべて唐物で、茶入れも中国の焼き物で占められていた。しかし、村田珠光の頃から和物も使われるようになり、まず瀬戸が、その後、茶の湯の隆盛とともに信楽、備前、伊賀などの茶入れが作られるようになった。利休さんは焼き物茶入れだけでなく、塗り物のなつめを濃茶用に使い、小間などではなつめのほかに真中次などに仕服を着せて使用した。現在でも仕服を着せて濃茶に使われるのは、利休形なつめ、真中次、老松、金輪寺、あこだである。地方の窯でも茶人の好みを満たすよい茶入れが作られるようになると、現在のように濃茶入れ=焼き物になった。

つつじ

久田宗渓の長男。啐啄斎に跡取りがいなかったため千家の養子になり、啐啄斎の三女と結婚。文化・文政の時代、すべての面で固定化の見られた時代に千家を継いだので、伝統を守り、それを整理した。この時代に茶事、点前の形式が決められ、現在に至っている。如心斎のころに始まった家元制度も整備された。保守的だが、豪快な性格だったらしい。

ほたるぶくろ

8歳で父如心斎が亡くなり、14歳で家を継ぐ。叔父一燈宗室の指導を受け、堀内宗心、久田宗悦、不白などが後見に務めた。「不白筆記」は不白が如心斎から伝授された茶の心得を啐啄斎に宛てて書いたもの。40歳半ばに家元の建造物を火事で焼失するが、一年で復旧。侘び茶を守り、わびの極致の一畳台目の茶室を作る。60歳で隠居。65歳で亡くなる。ちなみに、「啐」は「鶏の卵がかえる時、殻の中で雛がつつく音」「啄」は「母鶏が殻をかみ破ること」の意味で、「啐啄」は、「禅宗で、禅宗の師匠と弟子のはたらきが合致すること」、また、「逃したらまたと得がたいよい時機」の意。(広辞苑より)

梅酒

台所の流しの下から2年前に漬けた梅酒が出てきた。2年間まったく日に当てず、暗い所に置いていたためか、琥珀色のとろんとしたとっても良い梅酒になっていた。新しいものは味が固いが、これはまろやかな舌触りだ。流しの下を2年間もそうじせず(!)、漬けたことも忘れていたのが良かったのかな?

萩3

昨日の稽古、濃茶茶碗は田原陶兵衛の萩だった。萩焼は1604年頃、毛利輝元が文禄の役のときに連れ帰った、陶工の李勺光、李敬兄弟によって始められ、江戸時代を通じて毛利家の藩窯だった。ほとんど茶の湯の茶碗で、井戸形か筆洗形が多い。李朝系の坂、山村家と、大和系の三輪家の三つが主流。写真はわたしの稽古用の萩。陶兵衛さんではありません。

うきつりぼく

糸巻き二十棚の濃茶と薄茶点前を稽古した。濃茶は特に難しいところはなし。薄茶点前の総飾りは、水指すぐ上の棚に茶器と茶碗を飾るが、同時に持って、茶器、茶碗の順に右手で、並べて飾る。花はうきつりぼくと二人静だった。うきつりぼくはまん丸な赤い花がかわいらしい。洋花とか。

today's flower

第7章-"Tea-masters"  茶の達人

「茶道が芸術の分野に大きな影響を与えたのはもちろんのことだが、礼儀作法から家事のこまかなことまでにも影響を与えている。例えば、料理、給仕の仕方、地味な衣服を身に着けることなど。茶道の教えは人々の生活の中に深く入り込んでいる。」

「美しく生きた者のみが美しく死ねる」として、利休さんの「最後の茶」について書いている。最後の茶に使った道具を客に形見としてわけるが、茶碗だけは「不運なくちびるが汚した茶碗は使ってはいけない」と言ってこなごなに割った利休さん。「美しく生きた者のみが美しく死ねる」という言葉を忘れずに暮らして生きたいと思うが、なかなか大変だ。

全部で68ページの薄い本だが中身が濃くて、難しかった。10年後にもう一度読もうかな。

ほちゅう花

覚々斎のころから都市の富裕な町人の間に茶の湯が広まり、如心斎の時代には茶道人口は大変多くなった。利休の茶の流れは大半が大名であったから、町人が稽古をするとなると千家流に集まることになった。広間で一度に大勢の弟子たちに稽古をつける必要から、ある程度の緊張を保ちつつ、稽古をしている弟子たちが平等に楽しめるようにと考え出されたのが、七事式である。しかし、如心斎は奇をてらったわけではない。あくまでも侘び茶の精神を第一とし、「目立たず、地味に、自然に」を表千家の家風とした。

flowers

第6章-"Flowers"

「日本と西洋では花の扱いが違う。」「日本で初めて花を活けたのは仏教徒。生け花が始まったのは15世紀で、茶の湯と同時である。」「足利義政時代、画家、鑑定家で、香道もなした相阿弥は生け花を始めた一人。村田珠光や池坊専応が弟子だった。」「16世紀後半から生け花が盛んになるが、茶道から独立して華道が始まったのは17世紀中ごろから。」「華道家の花は形式派と写実派の二つに分けられるが、茶人の花は自然(派)である。」「茶道では花は床に飾られるが、あくまでも従属的で、他との調和が第一に考えられる。」